大覚寺の歴史

大覚寺の歴史

大覚寺の歴史

大覚寺は元々、生実町字大覚寺脇1861-1番地、現在の県指定史跡「大覚寺山古墳」の場所にありました。

当時の境内は1292坪、堂宇(お堂の意)は本堂、薬師堂、子安堂、鐘撞堂、庫裏がありました。創建は 寛永元年(1624年)7月となります。

創建前は、信徒は知恩院32世の(大巌寺3世)霊巌上人(れいがんしょうにん)に大覚寺開山を依頼したところ上人はこれを承諾したが上総方面の布教に奔走中だった為、一寺に留まることができないので、上人の身代わりとして木造を与えたという。その木造やその他の像は現在も寺に護持されている。

当時の壇家は300余人といわれたが、生実藩主森川氏の家老「氏家平馬」等の藩士および その関係者ならびに南生実の一部の人であった。
なお、堂宇(お堂の意)は明治29年8月火災により消失、その後、明治34年再建されたが、寺院は漸次に衰退した。
大正年代に至り、民家を購い、字横須賀の地蔵堂境内(現在地の生実町1738)に移築した。昭和52年鉄筋コンクリート建ての本堂を完成し、その威容をあらためた。

「郷土の歩み(生浜郷土史研究会)」より

大覚寺の祖「霊巖上人(れいがんしょうにん)」

霊巖(れいがん)は天文23年(1554年)4月8日に、駿河国(静岡県)沼津で、今川家の一族、沼津土佐守氏勝の三男として生まれたとされ、幼名を友松といいます。
上人は諱(いみな)は霊巖、字(あざな)は松風、法号を檀蓮社霊巖雄譽松風(だんれんじゃれいがんおうよしょうふう)上人大和尚と号します。

幼いころより多彩な才能に溢れていたといい、霊巖の非凡な才能を見抜いた師僧が当時の高僧が集まっている僧侶の学問所に入れることにします。それが今の下総生実(おゆみ)の大巖寺(千葉市中央区)となります。
大巖寺の道譽貞把(ていは)上人の門を叩きました。師僧の道譽から「霊智の生ずるところ、わが宗の柱礎となるべし」と、霊巖という名をもらいました。15歳のことです。

天正2年(1574年)、学問修行に励む21歳の霊巖は、余命残り少なくなった道譽より、五重、宗脈(しゅうみゃく)という大切な相伝(そうでん)、浄土宗の正流を伝えられます。大巖寺2世は、遺言により大勢の門下の中から兄弟子の安譽虎角(こかく)上人が継ぎました。再び霊巖は、安譽のもとで厳しい学問と修行を続けます。天正7年(1579年)冬、26歳の霊巖に安譽は戒脈(かいみゃく)を授け、さらに門下に「霊巖はすでに学なりて、ほぼ仏祖(ぶっそ)の幽致(ゆうち)に通じたので、今より指南を乞うべし」と申し渡したので、大勢の学僧が霊巖の座下に学ぶことになりました。

天正15年(1587年)身体の衰えた安譽は、住持職を霊巖に譲与し、こうして34歳で伝燈法師(でんとうほっし)として大巖寺第3世を継いでいきました。

その後、浄土宗総本山・華頂山知恩院第32世となり、中興の祖として大火後の知恩院再建に尽力し、諸堂や日本一の知恩院の大梵鐘を建立。江戸霊巌寺(現在の江東区深川)を創建、霊巌(岸)島(東京都中央区新川)の地名の由来となりました。3,000人を超す弟子をもち、皇室や幕府にも信任が厚く、政治的にも活躍したといわれています。熱心な信者に支えられ、全国各地に多くの寺院を建てました。そのうちの一つが大覚寺となります。

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